初代セルシオが世界を変えた日。レクサスLS400、10億ドルの挑戦
1989年、トヨタが6年と10億ドルを投じて生み出した初代セルシオ。北米名レクサスLS400はメルセデスSクラスの約半額で静粛性と性能を上回り、高級車市場の構造を変えた。開発の舞台裏と競合への影響をたどる。
1989年、トヨタは1台のセダンで世界の高級車市場を書き換えた。開発に6年、投じた費用は約10億ドル。メルセデス・ベンツとBMWが君臨する領域に、日本から切り込んだ初代セルシオ、北米名レクサスLS400の物語をたどる。
始まりの決断、「世界最高の車をつくれないだろうか」
1983年8月。トヨタ自動車の豊田英二会長は幹部を集めた極秘会議の場で、ひとつの問いを投げた。「世界最高の車をつくれないだろうか」。メルセデス・ベンツとBMWが定義してきた高級車の頂に、トヨタとして正面から挑む構想だった。
当時のトヨタは、カムリやカローラで北米市場を席巻していた。だが「安くて壊れない」という評価は、裏返せば「高級車はつくれない」という壁でもあった。欧州勢の牙城に切り込むには、既存のトヨタブランドとは別の器が必要になる。
こうして始まったのが、社内コード「Circle-F」と呼ばれる極秘プロジェクトだ。

開発主査に就いた鈴木一郎氏は、名古屋大学工学部を卒業後、車両開発の多分野で25年の経験を積んだエンジニアだった。鈴木氏は明確な哲学を持っていた。「妥協すれば普通の車になる」。その言葉どおり、エンジニア1,400人を含む総勢約3,700人、24の開発チームが6年をかけてこのプロジェクトに取り組むことになる。
源流対策。音を消すのではなく、音を生まない
鈴木氏はFQ委員会と呼ばれる組織横断の品質管理体制を立ち上げた。技術、生産技術、工場の各担当役員をヘッドに据え、開発目標の達成を全部門で共有する仕組みだ。
セルシオの開発チームが追求したのは、高級車の本質である静粛性だった。ただし手法は独自だ。彼らは「源流対策」と呼ぶアプローチを採った。遮音材を積み増す対症療法ではなく、振動と騒音の発生源そのものをつぶす。

たとえばドライブシャフトの振動。防音材で覆うのではなく、素材を高張力鋼に変更して振動の発生自体を抑えた。動力伝達軸は完全な直線配置とし、微細な角度のずれから生まれる振動を排除している。結果、100km/h巡航時の室内騒音は58dBに収まった。
心臓部となる1UZ-FE型V8エンジンも白紙から設計された。排気量3,968ccのオールアルミV型8気筒DOHC 32バルブ。日本仕様で260PS/5,400rpm、最大トルク353Nm/4,600rpmを発生する。エンジン開発だけで約4億ドルを投じ、約900基の試作エンジンを経て完成にたどり着いた。既存のトヨタエンジンを一切流用しない完全新設計だ。
ボディには制振鋼板を採用し、高精度測定装置を新たに開発して組み付け品質を管理した。田原工場の生産ラインは、この1台のために刷新されている。
空力にも妥協はない。Cd値0.29は当時の量産セダンとしてトップクラスの数値であり、同時代のポルシェ911をも下回った。14台のフルスケールモデルを16か月かけて製作し、通常の6台を大きく上回る。フラッシュサーフェスのウィンドウガラス、ドアハンドル、床下のアンダーカバー。風洞テストでは車内にマイクを設置し、風切り音の発生源を1つひとつ特定して消していった。
開発全体では約450台の車両試作、約50台のクレイモデルを製作。テスト走行距離は数百万kmに及んだ。投じた開発費の総額は約10億ドルに達する。
3万5,000ドルの挑戦状
1989年1月、デトロイトモーターショー。トヨタは事前のティーザーもコンセプトカーもなく、完成車をいきなり世界に披露した。それがレクサスLS400だ。
北米でのベース価格は3万5,000ドル。メルセデス420SELの6万1,200ドル、BMW 735iの5万4,000ドルと並べると、その差は歴然だった。しかもLS400は、メルセデスやBMWでオプション扱いだったエアコンやオーディオシステムを標準装備していた。出力はメルセデス420SELの201hpに対し250hp。価格は約57%、性能は上。
同年9月1日、北米で販売を開始。初月に2,919台を売り上げ、年末までにレクサスブランド全体で1万6,392台を販売した。翌1990年には6万3,594台、1991年には7万1,206台に伸び、米国の輸入高級車ブランドで首位に立つ。メルセデスとBMWの顧客が、レクサスに流れた。
メディアの反応も熱かった。米国の自動車番組Motorweekは「我々が車を評価してきた長い歴史の中で、特定の車のあら探しにこれほど苦労したことはめったにない」と評した。英国のTop Gearではプレゼンターの Chris Goffey が "petrifyingly good"、恐ろしいほど良いと表現している。
発売からわずか3か月後の12月、レクサスは販売済みの全8,000台を対象にリコールを実施する。クルーズコントロールのアクチュエーター固着など3件の不具合が対象だった。だがレクサスの対応は、リコールそのものより語り継がれることになる。ディーラーが顧客の自宅まで車を引き取りに赴き、無料の代車を提供。修理を終えた車は洗車と車内清掃を施し、燃料を満タンにして返却した。この対応が、レクサスの顧客サービスの原点となった。
日本ではセルシオの名で同年10月9日に発売。A仕様455万円からC仕様Fパッケージ620万円までのラインナップで、1989-1990年の日本カー・オブ・ザ・イヤーを受賞した。
メルセデスが会議室に走った日
デトロイトのショーフロアでLS400を目にしたとき、欧州メーカーの幹部たちは自社の製品計画を根本から見直すために会議室へ走ったと伝えられている。

最も大きな影響を受けたのがメルセデス・ベンツだった。次期Sクラスとなる W140型はチーフエンジニアのWolfgang Peter氏が開発を率いていたが、1989年に予定されていた発売期限にすでに間に合わなくなっていた。そこにLS400が登場する。
メルセデスはLS400に対抗するため、W140にデュアルゾーンエアコン、二重ガラス窓、パワーアシスト付きのトランクとドアクロージャー、オルソペディックシートなど、数々の装備を急遽追加投入した。ショートホイールベース版の開発も加わった。結果として開発費は大幅に超過し、発売は18か月遅延。Wolfgang Peter氏はチーフエンジニアの職を解かれている。
もっとも、W140の遅延にはもう1つの要因があった。1987年にBMWがE32型7シリーズにV12エンジンを投入し、メルセデスもV12の新規開発とエンジンルームの再設計を迫られていた。LS400の登場はこの状況にさらなる装備追加の圧力を加え、開発の遅延を決定的にした。
メルセデスの変化は装備の追加にとどまらない。米国での販売価格を引き下げ、マーケットの声をより重視する設計方針へと転換を図った。高級車市場の構造が、1台の日本車によって動いたのだ。
LS400が切り拓いた道を、日本の自動車産業全体が歩むことになる。ホンダのアキュラは1986年に先行して設立されていたが、日産のインフィニティは1989年にレクサスと同年に立ち上がった。「日本車に高級車はつくれない」という固定観念は、セルシオとともに過去のものになった。
関連記事
新型レクサス IS300h: EPS・AVS刷新で走りを再定義した2026年モデルの全貌
1989年のレクサス初のTVCMで、エンジニアたちはローラー上のLS400のボンネットにシャンパングラスをピラミッド状に積み上げた。停止状態から全ギアを通し、233km/h相当まで加速。グラスは一切揺れず、一滴もこぼれなかった。ナレーションはこう締めくくる。"The Lexus LS400 is designed to stir the soul and not much else." 魂を揺さぶるために設計された車。それ以外は、何も揺れない。


